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人が死ぬとだいたい悲しまなきゃいけない風潮

Time Flies

「今度 悲しみが来ても 友達迎える様に微笑うわ」

 有名人が亡くなると、新聞やテレビ、ラジオなどでその訃報を流すとき、ほぼ無条件に「悲しい出来事」として伝える。

 そんな時、だいたい「いや俺は別に悲しくないけど?」と思う。

 有名人だから、顔や名前や、その仕事は知っていても、特にその人が好きだとかファンだったとかでもなければ、悲しみが湧いてこないからだ。

 それをあたかも「国民全員が悲しむべき」みたいな雰囲気で言われると、ちょっとおかしくないか?と反感を持つ。だからわざわざ「俺は悲しくないもんね」などと考えてしまうのだろう。

 もちろん、近しい人間が亡くなれば、自分だって悲しむ。しかし一度も会ったこともなく、言葉を交わしたわけでもなく、自分の存在すら知らない。そんな人が亡くなったところで、悲しみが湧いてくるだろうか。ただ有名人というだけで、こちらが一方的にその人を知っているというだけで、悲しみを感じる人がいるのだろうか。

 死ぬことは悲しいこと、という考えを、そろそろ改めてもいいのではなかろうか。高齢化社会真っただ中の日本は、これからどんどん人が死んでいくのだ。いちいち悲しんでいたらキリがない。死ぬことは悲しいこと、という刷り込みは、死ぬ側にとっても辛いことではないだろうか。

 人が死ぬことが悲しいのではなく、近しい存在を失うことが悲しいのだ。悲しみと死とは、直接は関係ない。死ななくても悲しいことはたくさんある。逆に、死んで悲しいのは、自分にとって身近な存在に限られる。悲しみを引き起こす出来事は、むしろ死以外のほうが多いのではないか。

 とはいえ、所詮人の世は体面と忖度である。悲しくなくても悲しいフリをしなければならない場面もあるだろう。ほとんど会ったことがないような親戚や、仕事関係の葬式に行けば、悲しくなくても暗い顔をして「ご愁傷様……」などと言わねばならない。

 本来、悲しみを分かち合うのは近しい人にしかできないことだ。縁遠い人に義理で悲しい顔をされたところで、何の慰めにもならない。例外は、似たような状況で死別の悲しみを味わった者同士くらいか。

 感情が形式化され、単なるポーズになる。そのポーズが、あたかも真実の表出であるかのように扱われ、感情は置き去りにされる。そんな社会の偽善が、人の心から感情を枯渇させてしまうのではないだろうか。

 ということで、今日はなんでこんなこと書いちゃったのかな。以上。

悲しみよこんにちは(21st century ver.)

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悲しい色やね

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悲しみの果て

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