心は空気で出来ている

虚ろいゆく心のままに

スポンサードリンク

「生きる意味はあるのか」という問いそのものに意味がないという話

漫画 なぜ生きる 蓮如上人と吉崎炎上(前編)

「コニャニャチワ!ナゼに生まれてきたの?

『タリラリラン』イミなんてないのだ」

 ホッテントリに入っていたこの増田。定期的にこういった内容の増田が上がってくる。

助けて!生きてる意味が分からないの!

意味がなければ自分で作ればいいじゃない。

2019/04/25 11:58

 せっかくブクマしたので、久しぶりに考えてみた。

 「生きてる意味がわからない」と「なぜ生きるのか」は、表現が違うだけで「問い」の意味は同じだ。

 私は、いつからか、生きる意味や理由は何だろうか、と考えなくなった。若い頃はよく考えていたように思う。そういうことを考えなくなったのが、年を取って頭が固くなったせいなのか、生きる意味を知ってしまったからなのかはわからない。

 今、あらためて「生きる意味や理由は何なのか」という質問について考えてみると、これは何という無意味な問いなのか、と思う。意味や理由について問いを立てているのに、それが無意味と感じるのはなぜだろう。

 「生きてる意味がわからない」と嘆いた増田は、社会の歯車として一生を送ることに絶望しているようだ。私も、就職する前は働きたくなかったし、就職してからはこのままで一生を終えたくないと思っていた。生きる意味を渇望していた。

 そこには、「欲望を満たすこと」「願望を成就すること」「何者かになること」ができなければ、生きていてもしょうがない、という考えが根底にあったと思う。つまり若い頃の私は、満たされていなかったし、何も成していなかったし、何者でもなかったのだ。まだ若かったから、それが当たり前なのだけど。

 会社で毎日似たような仕事を繰り返す人生には、満たされることも、成し遂げることも、何者かになることもないのが目に見えていた。先が見えていたのだ。そのことに全く我慢ならなかった。

 社会の歯車として、無味乾燥な生活を送り、退屈と平凡に甘んずることを良しとしないのは、人として正しいとも言えるし、間違っているとも言える。

 社会は、まず空っぽな人間を作っておいて、その空虚を満たそうとする欲望を糧として回っている。しかし、社会から得られるものは、空虚を一時忘れさせるだけの刺激でしかなく、本当に満たされることはない。

 欲望を満たし、願望を成就し、何者かになること、それらは「形」であって「中身」ではない。人はその形を実現すれば、中身も伴うだろうと考えて、懸命に形を追い求めるのだが、いくら形を作りあげても、中身が伴うとは限らない。

 その中身のことを「幸福」と呼ぶ。あれを手に入れれば、これが達成できれば、こういう人間になれば、幸福になれるだろうと考える。しかし、そうはならない。だから、次から次へと、別の形を追い求めて、虚しい努力を続けるのだ。

 「生きることには何らかの意味があるはずだ」という「想定」は、人がみずからを陥れるための欺瞞である。生きることの意味がどこかにあって、あなたが見つけてくれるのを待っている、というのは嘘だ。生きることの意味はどこにもないし、あなたがそれを見つけることもない。

 人が幸福な時、初めて人生に意味が宿る。そして幸福とは、欲望を満たすことでも、願望を成就することでも、何者かになることでもない。むしろ、その全てに囚われていない時に、自ずから生じるものだ。幸福とは、幸福を追い求めていない状態であるとも言える。

 生きる意味を問うということは、人生に何らかの「形」を求めるのと同じだ。しかし、「形」を手に入れても、そこに幸福が宿ることはない。人生に意味や理由を問うのが無意味だと考えるのは、そういうことなのだ。

 それでも、人生に何の疑問も持たず、ただ与えられた生活を送っているだけの人が、人生の意味や理由を問うのは、きっかけとしてアリではないかと思う。そこから、自分自身を見出す道が開けるかもしれないのだ。

 だから、人生の意味や理由を問うことは、無意味だとも言えるし、意味があるとも言える。賛成の反対なのだ。

 今日の話はこれでおしまいなのだ。

BAKA-BONSOIR!

BAKA-BONSOIR!