心は空気で出来ている

その場の空気で書く日記

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心の旅 (7)

 前回のあらすじ

 <実際に、静かな心のありようというものを体験し、自分の心を客観的に見つめられるようになりました。常時、心の一部に「観察者」がいる状態。しかしそこには予想だにしない副作用が……>

 一度、自分の心を常時観察する術を覚えると、わざわざ黙想のために座ったり、静かな時間を選んだりという必要がなくなり、放っておいても「観察者」が働くようになりました。

 仕事をしていても、遊んでいても、トイレに入っていても、もう一人の私である「観察者」が、いつでも私の心を見張っています。そしてことあるごとに、私の考えを批判します。といっても、観察者も私自身なので、ようするに自分で自分を批判するのです。自己批判というやつです。

 そのうち、私は、私の心がいつでも自分を中心に動いていること、すなわち自己中であることを認めざるを得なくなりました。道徳や倫理を守ろうとする意識の裏で、本当は自分を守ること、自分の利を得ることしか考えていないのだと気づきました。

 そのあからさまな事実を前にして、否応なく自己嫌悪に陥りました。表向きは善人面をしていても、内心は自己中で我儘な人間でしかない。それまで表面の意識しか見えていなかったものが、少し深いところまで見えるようになったことで、自分自身に隠し事ができなくなったのです。

 私は偽善者だ。私は自己中だ。そんなことばかりを考え、本当に生きているのが申し訳ないと思いました。「生まれてきてすみません」とはこういうことか、と実感しました。

 しかし、そんな状態も長くは続きませんでした。ある時、ふいに閃いたのです。

 「私を批判している私は何者か。自己中な偽善者である私に、私を責める資格などない。私の偽善や自己中を責める行為こそ、偽善に他ならない」

 私を観察し、その性質を批判する観察者は、他ならぬ私自身であり、その観察者がまるで他人事のように私を責めるのは筋違いだ、ということに気がつきました。私は、観察者という部外者を置いて自分を責めることで、自分が偽善者であり自己中であるという事実から、自分を逃がそうとしていたのです。

 自分を責めることは、自分自身からの逃避だ。それが分かった時、私にはもう逃げ場がありませんでした。自分が偽善者であり、自己中であるという事実から逃げられなくなり、そこに留まることしかできませんでした。

 すると、自分を責める気持ちも、卑下する気持ちも消えてなくなり、私は偽善者であり自己中である自分自身を認めることができました。開き直りではなく、偽善者だろうと自己中だろうと、それで仕方ない、もう自分はそれで生きていくしかない、という、ある種のあきらめに似た精神状態になりました。

 そこで初めて「ありのままを受け止める」ということを理解しました。

 ありのままでいい、という「許し」のようなものではなく、ありのまましかない、という「あきらめの感覚」です。こういう自分で生きていくしかない。それで自分がどんな目に合おうと、それが自分の人生だ、というような感じ。

 言葉で説明すると「あきらめ」が近いのですが、本当は違います。実際のその感覚は、言葉では説明しきれません。

 そう、私は自分の心を観察し始めることで、決して言葉で説明しきれないものがある、ということも知りました。それは人に対する以上に、自分自身にも説明できない何かが、心の中に生まれるということです。

 自己嫌悪の壁を越えた私は、さらに深く自分の心を探求し始めました。